〈イベントレポート〉「Greenest」なまちづくりを目指して Vol.1
~持続可能な新しい社会・経済モデルについて考える~
【イベント概要】
「The Greenest City」
これは現在議論が続いている令和3年度からの「仙台市基本計画」*の素案の中で、「まちづくりの理念」の一部として掲げられている言葉です。「Green」という言葉には、「自然」「心地よさ」など様々な意味が込められていますが、それに「est」(最上級)を加えて、常に高みを、より良い「まちづくり」を目指していく強い意志も込められています。
では、そんな「Greenest」を目指して何ができるのか?
どんな「Green」があって、どのように「est」を目指していくのか?
まちづくりの中で、どのような工夫ができるのか?
今回のソーシャルイノベーションナイトでは、そんな「Greenest」について考える時間にしていきたいと考え、オンラインの特性も活かして九州より2名のゲストをお招きしました。
福岡を起点に、日本全国、さらには世界で、「たのしい循環生活」をゴールに、生ごみから堆肥をつくり、野菜を育てる、、そんな半径2km圏内の循環生活「ローカルフードサイクリング」を推進する、「じゅんなま研」(特定非営利活動法人循環生活研究所)のたいら由以子さん。
UDS株式会社(都市デザインシステム)で、まちづくりにつながる「事業企画」「建築設計」「店舗運営」を実践、同社社長を務められたのち、約1年前に宮崎県都農町に移住。高齢化で後継者不足に悩む「農の都」(都農)を拠点に「新しい社会・経済モデルの創造」を目指されている、株式会社イツノマの中川敬文さん。
お二人の取り組みや想いを伺いながら、これからの「まちづくり」について、「The Greenest City」について、考えていくきっかけにできればと思っています。
*「仙台市基本計画」の素案や審議過程については、仙台市ホームページをご覧ください:
https://www.city.sendai.jp/machizukuri-kakuka/shise/zaise/kekaku/shin/shingi.html
【ゲスト】
たいら 由以子 様
特定非営利活動法人循環生活研究所 理事
大学で栄養学を学び、証券会社で勤務。大好きな父とのお別れをきっかけに、土の改善と暮らしをつなげるための、半径2kmでの資源循環を目指し活動開始。青年団の仲間と「じゅんなま研」を立ち上げ、子どもから高齢者、外国人までコンポストでつながる美味しい食の輪をつくるのが生きがい。メンバーとのお茶の時間を一番大切にしている。行動を最良の学習手段とし、活動をスパイラルアップさせるが信条。趣味はイラストコミュニケーション、レコード・映画鑑賞、愛犬と遊ぶ。
現在、アジア3R推進市民ネットワーク副代表、北九州大学マネジメント学科特任教授、日本環境ボランティアネットワークJCVN理事等も務める。
特定非営利活動法人 循環生活研究所
https://www.jun-namaken.com/
中川 敬文 様
株式会社イツノマ 代表取締役社長
東京生まれ、東京育ち。大学進学に際し、関西に興味をもち関西学院大学に進学 卒業後、化粧品の株式会社ポーラを経て、1999年よりまちづくりにつながる「事業企画」「建築設計」「店舗運営」を実践するUDS株式会社(当時 株式会社都市デザインシステム)入社。2003年より代表取締役。経営と並行して、建築企画、プロデューサーとして「コーポラティブハウス」「キッザニア東京」「神保町ブックセンター」「INBOUND LEAGUE」など住宅・商業・子ども施設・ブックカフェ・コワーキングスペースの事業企画・デザインディレクション・運営立ち上げを実践。2020年、計画通り若手人材に経営後任を託し、社長を退任し、その一年前より携わっていた宮崎県都農町のまちづくりを、本格的、集中的に実施すべく、東京より単身移住、起業して株式会社イツノマを設立。
株式会社イツノマ
https://itsunoma.co.jp/
【モデレーター】
竹川隆司
一般社団法人IMPACT Foundation Japan 代表理事
【トーク】
竹川:本日のゲストはたいら由以子さんと中川敬文さんのおふたりをお招きしております。それでは早速ではございますが、たいらさんからお願いします。
たいら:持続可能な栄養循環が私たちの命を支えるというスローガンを持って活動してます。よろしくお願いします。
NPO法人循環生活研究所の理事長を昨年卒業しまして、ローカルフードサイクリング株式会社を立ち上げました。
ローカルフードサイクリングっていうのは地域で食べ物がまわるという意味なんですが、INGをつけたのは住民が自分でまわすって意味と、自転車で回れる距離っていう、この二つを中に込めて名前をつけました。
捨てればゴミになるものを、おいしい健康な野菜を作る循環ということで、最終的にはパブリックヘルスで住民の努力で病気を予防したり、寿命が延びたり、楽しい毎日を送れるっていうことでこの活動をスタートしました。
最初NPO法人で徹底的に堆肥のオタクになろうと思って活動をしまして、人材育成に踏み切って、それから海外にも人材育成をしたりとかっていう形で現在に至っております。
私の父が末期がんになって余命3カ月ということで、余命2ヶ月で連れ帰って食養生して自宅で過ごそうということを決断してくれました。
その時に無農薬野菜がないことに気づきまして、福岡市内中を2時間かけて探しても、見つかったのは古くて高いという時代だったので、食べさせないと死ぬんじゃないかという焦りと、子どもの将来どうなるんだっていう、悶々とした日々を過ごしました。
食べるのってすごい大変で、体調悪いときに1日1時間以上かけて父が食べてくれたんですよね。死んだ方がいいと思うぐらいつらい時もあったかと思うんですが、多分私たちが努力してることに対して一生懸命食べてくれたんではないかと思います。
結果、父は途中で癌が消えて、寿命が2年延びたんですよね。海に行ったりとかすることができました。その間2年あったので、世の中どうなってるんだってことと、子供の将来のために何ができるんだっていうことを考えました。
その時にあらゆる環境にいいことをしてみたんですが、お金や時間がかかるけど、結果がいつ出るかわからないっていうことが、私の中で大きかったんですね。
それでそもそもどうなったらいいんだってことで自然を定義すると、自然はやっぱり文化的な機能がもともとあって、デザインとか、いろんな芸術の着想になったり教育になってる象徴性があるとか、あとは一次産業とか供給機能で、魚をとったり、山菜をとったり、水だったりってことと、最終的には今問題になっている気候変動の元、調整機能がもともとあるのにそこもだんだんおかしくなってきたっていうことですね。
そのことを考えるのに山川海の構想がそこで出てきて、雨が降ったものが小川になって海に繋がっていて海の様子がおかしいっていうことですよ。マイクロプラスチック問題で出てきたかと思うんですけども、やっぱりこんなふうになったのも、山と海の間に住んでる私たちのライフスタイルがおかしくなっているからっていうことがわかりました。結果、悩みに悩んで、スーパーでキレイな野菜を選んで買ってた自分が悪いんだっていうとこまで行き着きました。
川を挟んで右と左で、昔と今をイメージして書いてみたんですけど、左側の田舎みたいに書いたところは、私のおじいちゃんの子どもの頃をイメージしてます。いろんな物が身近で生命を育む土地とか水たまりとかたくさんあったなってことと、燃料も近場で取っていたことなんか考えると、安全でおいしい野菜が取れなくなったらもうしょうがないなっていうことを思ったんですよね。
だけどそんなこと言ってたら、自分の子どもが将来子どもを産めるのかとか、どうやって食べていくんだってことは解決しないってことですね。
これをさらに突き詰めていろいろ勉強していくと、山が荒れて土地が痩せてしまったことから、土砂崩れが起こりやすくなったりしてるってことですね。
それと栄養を捕まえて鉄分とかを海で離すんですよね。それが植物プランクトン、動物プランクトン、小魚、魚っていうふうになって、最終的には死んだものもバクテリアによって分解されたりとか、カニ類がそういったもの食べて循環していたのが、私達の排水自体も変なものが出てきたりとか、いろいろな分解しないものが出てきて、最終的にはおかしいなっていうことですね。
このことを考えたときに日々の暮らしで解決できないとダメだっていうことがあって、私の母が堆肥作り名人だったので、彼女から習った堆肥作りでできた堆肥を使えば無農薬で化学肥料も使わずに作ることができる可能性を知ったときに、これだっていうふうに思いました。
それとあの看病に閉じ込められて過ごした半径2キロが、とっても暮らしやすかったことで、全てが自分ごとに考えることができたので、半径2キロ単位でこの資源循環を作ることが持続可能性を高めて、おいしい野菜を作る仕組みができるんじゃないかと考えました。
このプランを考えたときは本当に嬉しくて、暗黒だったのが希望が一気に来たっていう感じでした。主婦が感じる生活圏からスタートしたのは、この24年ぐらいですね。活動してきて、デイケアセンターの送迎サービスが地産地消の定理とか、中学生の日本ミツバチの行動範囲とかいろんなことが後からくっついてきました。
あとは都市部で作ることがすっごい重要だと思ってまして、コンポストに入れて混ぜるってことがものすごい教育になるっていうのと、まぜてる間に土をイメージしたり、作物のことをイメージするので、スーパーに行った時のスキルも上がるということがわかったので、とにかく都市部でやれるコンポストに特化して、事業系のNPO法人として20数年やってきました。
都市部で生ゴミを集めてローカルに持っていって堆肥にするのではゴミを捨てるのとそう変わらないので、都市部でやることが私の中ではすごい大事だというふうに思っています。
現在私たちの選択肢としては、ゴミとして燃やすか、自治体で資源化するか、自分でコンポストするかになります。ただし、90%がゴミとして燃やしております。OECDの数値でもリサイクル&コンポスティングがOECDの加盟43ヶ国の中でも非常に低い。それは日本で焼却する文化が根付いちゃっているので普及が難しいのかなと思います。
実際に償却しなくなると、生ゴミはほとんど水分ですから、いろんな課題を解決できるんですよね。それは償却費用とかパッカー車のガソリン代とか人件費とか、それから生ゴミを捨てるときにビニール袋に皆さん入れてるので、プラスチック問題もかなり解決できると思っています。
一般家庭で年間1800万tぐらい捨てていて、世界中で見るとアメリカ領土の1.5倍ぐらいの土地を利用して、育てたものを全部捨ててるっていう感じですかね。しかも枯渇資源の栄養素を含んでいるものを焼却して埋め立てしてるので、栄養価的に持続不可能なんですよね、今の暮らしは。
そういったこともあって土の改善と日々の暮らしを繋げてこの輪を作るっていうところからスタートして、普及活動をすることと、都会でもできるっていうことにもう20数年かけてきました。
一番最初、母を誘ってこの事業をスタートして、彼女は55年以上堆肥づくりをして、今でも第一線でとっても元気に働いているんですね。彼女と一緒に二人三脚で今までやってきました。彼女は自分事にするのがすっごい上手で、もうめちゃくちゃハマりまくって堆肥を研究していきました。私が疲れてようと寝てようと、もうこれだ!と思う時は、吹雪の日もやってきて、見て見て!って言うような母です。
コンポストっていうのはいろんなものを吸着して分解していくんですけども、臭いとか虫問題に非常に私どもは強いので、年間8万人以上に普及する体制を整えてやってきました。
いろんな堆肥を作るんですけれども、とにかく数値化していろんな実験を重ねてきて、あらゆるものを堆肥化してきたっていうところが強みではないかというふうに思ってます。
仙台でもこのローカルフードサイクリングを立ち上げたいっていう方が出てきて本当に私も嬉しく思うんですけど、これも長年実証実験を重ねてきました。それはコミュニティコンポストっていうスキームで、ひとりでしてたコンポストをコミュニティ化することで継続率が何十倍もあがるっていうことや、それを回収して、菜園もコミュニティ化して販売もローカルマーケットで半径2キロ単位ごとにマルシェを作るみたいな仕組みを作ります。
真ん中にニワトリを入れてるのは、これで野菜が自給自足できるとタンパク質問題どうするってなるので、ヴィーガンじゃない人向けに今後は都市部でニワトリとか家畜を飼う時代だって見込んで真ん中にニワトリを入れたマークを作りました。
コミュニティガーデンもオープンして、堆肥の熟成とか、高齢者の見守りタイプのLSCなど、表参道とか展示の屋上とかでいろんなことをやってます。
それでも参加しない層がかなりいるので、都市型のLSCコンポストっていうのを開発しました。バックタイプにしてカジュアルになったっていうことで、一気に使う人が増えて、約9000人から1万人近くの方が参加してくださって、ゴミを減らしてくれています。
しかも参加層が、90%が初心者って月もあって今だいたい80%ぐらいになって、今年めっちゃくちゃゴミが減ったっていうふうに自負しております。
いろんな有名な方もこれに参加してくださっていまして、どんどんゴミ減らす人が増えてほしいなって思ってます。
ローカルフードサイクリングはいろんなとこと連携して、地域の組織が自分でそういったプロジェクトを育ててほしいって思ってますので、ぜひ自分ごととしていろんなプロジェクトをローカルで立ち上げてほしいなって考えてます。
ソーシャルインパクトとしてはもちろん生ゴミなんですが、生ゴミ減らすっていうのは、SDGsでいうと12番のところなんですけども、突き詰めるとですね、2番の木が都市部で食廃棄物を減らすと、アジアとか開発途上国の食料に困ってる飢餓にいってる子らの74%ぐらいにアプローチできるようになるってことで、やっぱり廃棄物を減らしていきましょうっていうことを一生懸命訴えている団体になります。
私からは以上になります。ありがとうございます。
竹川:ありがとうございました。では次に中川さんの方からお話をしていただきます。
中川:よろしくお願いします。自己紹介としては、もともとは化粧品会社からスタートしたんですが、20代の半ばで家族で新潟の上越市に移住して、そこで子どももを産んで育てていました。
移住のきっかけとなったのは地方でまち作りがしたいということで、当時国内で一番大きなショッピングセンター、地元の砂利採取場の社長さんが作りたいと言ったことを、お手伝いしようと思って移住してます。
今で言うと、地方移住って言葉もありますけど、当時は全くなかったので、非常に苦労もしたんですけど、この時の体験が今やってる仕事の結構な糧にはなっているのかなと思っています。
その後30歳前後のときに東京に戻ってきて入ったのがUDS、当時は都市デザインシステムという社名でしたが、創業した現会長と意気投合して入社をして、2003年から共同代表という形で約20年近く経営をしてきました。
基本的には建物が中心なんですけど、自分たちでアイディアを出して収支を計算して企画をして、一級建築士事務所として設計をして、一番の特徴はそのできたものを運営までやらせていただくという仕事をずっとやっておりました。
会社としては最近でいうとホテルがかなり多くなってるんですけど、僕自身は経営の仕事がメインだったんですが、自分でもまち作り中心にやっていて、テーマとしては教育や、コミュニティということをテーマに、一番わかりやすい例でいうとキッザニア東京の立ち上げですとか、佐古町というところで廃校になった小学校を、オランダのイエナプランという教育メソッドを東京で作ろうという会を一緒にやってたものですから、ご縁があって大日向小学校を作ることができて、今2つ目のイエナプランも広島に作ってるという形です。
その後、都農町に移住したんですが、ほとんどの方が都農町のことをご存知ないと思うので簡単にまとめたものをもってきました。宮崎県人口100万人ぐらいの県の中で、ちょうど1%の1万人の町でして、町としては児湯郡という群に属してるんですが、宮崎市内から1時間ぐらいの町になります。
都農ワインというぶどうを戦後、町を挙げてチャレンジをしてきて、これだけ南の方で高温多湿なところでぶどう栽培というのは非常に先人たちの努力の積み重ねでぶどうを名産にして、かつそのブドウを使ってワイナリーにチャレンジをして、来年ちょうど25周年なんですけど、ワイナリーの中には赤字で苦しんだり、うまくいってないところも多いように聞くんですが、都農ワインの場合は完全に株式会社化をして、利益も出して年間20万本売っています。
あと2010年に口蹄疫という牛豚の伝染病で壊滅的な経済打撃を受けて、農の都と書いて都農町ということで、ここで打撃を受けて、県内所得も最下位ぐらい落ち込んで、そこから道の駅やふるさと納税に町を挙げて取り組んで、現在、再生復興はしてるという認識はしてるんですが、ふるさと納税で若干自主財源も作って、人口が今すでに9000人台に切れてますので、8000人6000人と減っていく中、高齢化率も今40%ぐらい、2040年には老年人口の生産年齢人口を上回るという日本の中に置けば、課題先進町なのかなと思ってまして、こういった環境の町でどういうことを今すると、次世代、未来に対して貢献できるのかっていうことが、今僕がやっている仕事の総じてのテーマにはなります。
都農町に移住した理由は、もともとUDSっていう会社やってる時に、都農町とご縁ができて、町のブランドデザインの100周年ということでブランド作りの手伝いからスタートしたんですが、結果的に町長やまち作り課の行政、都農ワインの社長さんなど、町のあらゆる経営層と話した中で非常にひとりひとりが魅力的で、都農町を良くしようと一生懸命やってるところに惹かれました。
自分は会社に20年近く在籍して、もともと若い世代に早めに移譲をしていきたいと。1000人ぐらいの規模になったので、一つ下の世代に移譲して、自分自身は今53歳なんですが、ちゃんと地方に根を下ろして、地方のまちづくりに今まで自分の経験とかスキルを生かしてまた地方に貢献したいなということで移住を決めました。
今移住形態としては、ここに資本金100万円出して、株式会社イツノマという会社を都農町に設立をしまして4月から営業を開始したんですが、デジタル化が急務ということもありまして、そういった人材の採用も仕掛けて今10人の体制で進めてます。
ミッションとしては「人から始まるまち作り」っていうのは僕の中ではずっと変わらない軸で、全ての人からしか町は始まらないかなと思っているので、高齢者も若い人も学生も含めて、そういう人たちがどういう街にしたいかとか、どういう街に魅力を持つのかっていうことをテーマにやってます。
事業内容としては大きく3つで場作りという、UDS時代からやってる建物をリノベーションをしたり、にぎわいの場を作るという仕事と、あと会社としては半分ぐらいがIT企業化をしてきてまして、デジタル化、まち全体のデジタル化の推進やWebの受注をしてます。
それが僕のライフテーマでもありますけど、ずっとキャリア教育ということに対しては、一番モチベーション高くやってきてはいるので、今この場作りとデジタル化とキャリア教育、この3つを連動させながら、都農町という1万人の町で、日本の場合、市町村の中で3分の1ぐらいが多分、1万人以下の町だと思うので、都農町に限らず、今後の社会モデルや経済モデルっていうのを僭越ながらチャレンジして何か作れるといいなという想いでやってます。
今運営メンバーはここ5ヶ月ぐらいで採用をかけまして、合計8人採用、20代中心に採用して、今7人が移住をしてきて、一緒にやってる状況です。都農町ですと、20代自体ほとんどいない町なので、かなり目立つ存在にはなってきてるんですけれども、自分が来たことで貢献できるということでいけば、こういった人たちを引っ張ってくることかなとは思ってるので、今町の人と、特に高齢者対応を今中心にやってるので、町の高齢者と東京や大阪から来た20代のメンバーと、交流を進めているというところです。
僭越ながら私自身20代の頃から、まち作りや場を作ったり、行政と一緒に自治体を盛り上げたりという仕事をしてる中で、当たり前っちゃ当たり前なんですが、必要なことって、自分がベンチャー企業をずっと20年近く経営してきて思うことなんですけど、結構一緒だなというふうに思ってまして、町長からも経営を手伝ってくれというふうには言われてるんですけど、人物金にデータを加えて、この4つに限られた資源をどう配分するかっていうのが非常に今問われているんじゃないかなと思っています。
まち作りを自分で実際にやって感じるところは、人物金データの順番がかなり時代をおいて変わってきてるなというふうに思ってまして、1990年代はバブル、僕89年社会人デビューなのでちょうどその時代っていうのはやっぱりまち作りにおいてもお金が最優先でしたし、どうやっていい箱、建築家とかっこいい建物を作るかっていう時代から2000年に移るとITバブル化してきて、少し建物重視になってきた印象を持ってます。
リーマン危機を経て、2010年からは人の重要性だったり、さらにコロナもあったので、人に加えてデータといったように、もちろんこの4つはいつの時代も全て必要な要素なんですけど、優先順位が限られた人・データに推移してきてるんじゃないかっていうふうには考えてまして、今都農町でやってることもまさしく、それを反映してるなと自分でも思っています。
建物の仕事としては1万人の町なのでそんなにたくさん仕事があるわけじゃないので、建物を作りたくて来たわけではなくて、街の人、若い人を含めて、あるいは外からどう採用してきて、若い人、役場の人を育成支援をしていくかっていうことで、今、都農町のような町に一番必要なのは職種でいうと2つだと思ってまして、ひとつは経営ができる人と、もう一つはファシリテーションができる人。
都農町の場合非常に才能豊かにビジネスセンスある方も非常に本当に多いので、僕がビジネスを提案して何か仕掛けてくというよりは、みんなのいいところを引き出しながら、合意を作っていくっていうことを中心にやってるので、経営的感覚を持ちながらファシリテーションしていくっていうのが、今の都農町に関してはいいんじゃないかなと思っています。
コロナということもありまして、デジタルの制作提言をして、結果今会社としてもデジタル化がメインの仕事になってるんですが、デジタルを目的と思ったことは1回もなくてこの先、ポストコロナを見据えたときに、まさに今日のテーマがサーキュラーエコノミーや循環型の経済を作っていく上でも、デジタル化をしていくことは非常に重要なんじゃないかなと思ってるので、今後都農町が生き残るためにも、インフラとしてデジタルが必要じゃないかと、そういう意味で進めてます。
これはもともと昨年皆で考えてきた都農町のグランドデザイン、ひとつの未来マップなんです。これを実際にアクションプランを900個私の方で作ったので、それを町民と500人ぐらいとワークショップしながら、100周年である今年やろうということもあって、移住して勝負をかけようと思ったんですが、結果3月に引っ越してきて、ほどなくコロナということもありまして、1回全部白紙にしました。
町長から都農町は農の都なので、農業生産者がやっぱり販路がなくなって苦しくなると町として打撃が大きいので、その農業生産者が販路をオンライン化で何かやってくれないかということで構想を始めまして、ポケットマルシェとか、もともと付き合いのあったところをご紹介はしてたんですが、生産者の方は自分の食材の写真も撮ったことないですし、オンラインで売ったこともないし、Zoomで打ち合わせって言われても全然ピンとこないっていうことはありました。
高齢者の方が出歩けなくなると認知症が増えちゃうし、小中高生は学校行けないくて、家にWi-Fiないとオンライン教育もできなくて、みたいなことが、町に住み始めて非常にひしひしと感じてきたところもあるので、こんな形でデジタルフレンドリーっていう宣言をさせていただいています。
都農町なので、いきなりスマートシティーを目指そうとか、5.0対応っていうことではなくて、あくまで高齢者のデジタルとフレンドリーになって楽しく扱えるようになるという側面とあと孫世代が高齢者にデジタルを伝えていくことで、デジタルがあったことで、高齢者と若者が仲良しになる。そういったフレンドリーっていうのをコンセプトとして掲げています。
町長には4つの施策を同時にやってくれという提案をして、ひとつがポータルサイトと呼んでいる、町民のIDを蓄積しながら総合型のホームページを整理して、今後いろいろとアプリなどができたときに、おじいちゃんがIDひとつ登録しとけば全部そこから入れるような玄関口を作りたいと、やっぱり光とWi-Fi整備しないと、オンライン教育もできないことで、光回線の整備をしたいと思っています。
それから65歳以上と15歳以下にはタブレットを合計2000世帯に配布をして、特に高齢者に使ってもらえるようにする。一番はやっぱり人から始まるまち作りっていうことを掲げてるので、この若者世代は徹底的に高齢者に伝えていくことを主眼に置いて、アクセンチュアと一緒に開発中のポータルサイト、タブレット版のものをオリジナルで作ってまして、こんな形で高齢者が自分の名前入れていただくと、高齢者専用というページで、健康的なカレンダーとか、アンケート、目安箱あったり、全部アナログで配られてる回覧板みたいなものをデジタル化したり、お医者さんとか介護師から毎日健康日記を出そうとか、あとは動画を今弊社でも制作して、これからどんどん配信してこうと思っています。
実際に配布するのは4月以降なんですけど、今現在は孫世代、僕も含めてなんですけど、いろいろ高齢者の方に訪問をして、1時間あれば、デジタルの話10分ぐらいで50分ぐらいは都農の昔話とか、久々にこんな若い子と話したみたいな形で、交流を深めているところです。44自治会があるんですけど、3月までに全自治会を一周して、4月から本格的にタブレットを配布してサポートしていくということで進めています。
このような形でデジタル化、特に僕は高齢者をデジタル武装させたいなと思ってまして、ホームページの方も、私達の会社で今、町のホームページ受託をして、運営や更新をしていくので、その際、僕らが企画やリーダーシップをとっていくんですけど実際には高齢者の方がWebライティングとかしてもらえるようになってくといいんじゃないかなというふうには思ってます。
あともう一つの切り口では1万人の町で未来どんどん人口が減っていって、都農高校という県立唯一の都農にあった高校が、この3月で廃校になるということもあり、中学校は今1校しかないんですね。この都農中学校というところが約240人います。
都農の10年後を考えると、僕からすると、今の中学校に全力投球じゃないかなと思ってまして、今の12歳から15歳の240人の中学生に未来を考えてもらって今日のテーマのサーキュラーエコノミーとか環境とか、ビジネスモデルとかデジタル化をしっかり伝えていけば、10年後、彼らが主役になって街を作っていけるんじゃないかと、大人が勝手に何かビジョンを考えて、この難しい戦略で作ってく町だと、肝心の主体になる中学生高校生たちはもうほっとけばどんどん流出してきますし、町を出て、都農を改めて知るというのは全然ポジティブなんですけど、やっぱり流動性を高めないといけないし、出てく人がいてもいいんだけど、入ってくる人もいるようにしなきゃいけない。
そう考えると、宮崎大学、都農高校と中学校と小学校、ここ全部今、関係を持たせていただいて、都農高校の3月でなくなっちゃいますが、都農高校を卒業することを、来年新卒で私の会社に入社してもらうことにして、この同級生80人ぐらいいたが繋がり続けようかなと思っています。
この中学生向けに、ひとまず今年は全職員と全中学生にキャリア教育の講演会ということで、私と私たちの会社のメンバーで話をし始めていって、早速、廃校になる都農高校で何作ったらいいかっていうアンケートをやったりとか、先ほどお話したポータルサイト作るとしたら何があったら見たいかみたいなことを中学生全員にアンケートとってやっています。
このプロセスをポータルサイトが出来たらデジタル上で双方向で役場の人と中学生がどんどん都農高校をどうやったら良くなれば、良くなるのかみたいなことができるといいかなと思っています。
これも地元の新聞でもこういう形で取り上げていただきまして、町長や教育長から校長を紹介してもらって、僕がやってる街作りを中学生にリアルに伝えることで、中学生たちに未来をちゃんと考えてもらうおうということで、来年総合的学習の時間を使って、1人当たり年間15時間ずつは僕らが授業を受け持って、徐々に入っていきたいと思ってます。
あと都農町でコワーキングスペースを自分たちで企画して運営させていただいてまして、こんな感じで町内外の僕の東京時代の仲間の経営者をコロナの合間を縫って呼んで、地元の経営者と交流してもらったり、20代の若者ピッチで自分たちがやりたい新規事業を提案してもやっぱり女性経営者を応援したり、ECマーケティングの勉強会したりということをやっています。
あとは少しずつですけど、シャッター街の店舗をリノベーションして、町の人たちが集まれるような場づくりも進めています。
最後になるんですけど、都農高校という県立の高校が3月に廃校になりまして、高校でもかなり大きな高校で5万平米以上あるので、ここを町として県から購入して開発していくのかどうかという渦中にありまして、僕らは町から委託を受けて基本構想を作ったところです。
今後本格的に町、県、宮崎大含めて、ここをどういうふうにしていくのかというのを考えています。ここに今日あげてる図面は僕らで作ったもので一旦用途としてはこんな感じかっていうことは提案してるんですが、やっぱりコアになるところは今の中学生とか小学生たちと、未来の都農を考えるというテーマで、少し大きなメインコンセプトを掲げていきたいなとは思っています。
当然都農町も異常気象、台風の被災地になりえますし、南海トラフも起こりえるし、サーキュラーエコノミーやフードロスやそういった社会課題っていうのは、都農町も他人事ではないし、逆に鹿児島の大作町の層でいらっしゃるように、1万人の町なので、いざ何かをやろうとしたらかなりスピーディーな町長でもありますので、やれることもあるんじゃないかなと思っていて、この都農高校というフィールドを生かして、環境だったり、しっかりと中学校のキャリア教育の時間にも枠を設けて、都農高校でどうやったら、循環型の経済を作れるのかとか、農の都としてどうやって自然の堆肥を使って農業を維持していくのかみたいなことをこれからどんどんディスカッションして作っていきたいなというふうには思っています。
私からは以上です。ありがとうございました。